【暴露】イエ●ス会トクダネ第一弾、帝国は跡形もなく消える

バチカン
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黒幕

よく都市伝説業界ではイエズス会が世界を支配しているとよく言われる。果たしてそれは本当なのか?いや幻なのか?答えはどうだろう?

ちなみにイエズス会は消失した組織ではない。今も現存するれっきとした組織である。本拠地は当然ローマにあるのだ。

1534年にイグナティウスと、フランシスコザビエルなど6人の若者が集まったのだ。彼らはモンマルトルの礼拝堂で清貧と貞節、エルサレムへの巡礼の誓いを立てたのであった。

彼らはローマ教皇パウルス3世により承認されたのであった。彼の本名はアレッサンドロファルネーゼである。

それがイエズス会の始まりだ。イエズス会の会員は極限状態での生活が求められる可能性のある世界のどこにでも行く使命がある。そんな彼らは教皇の精鋭部隊であると言われた。

端的にいうとローマカトリック教会の武装民兵である。彼らの使命はプロテスタントを打ち負かし、世界的な教皇領を取り戻すという使命があった。

ちなみにプロテスタントとカトリックの違いはなんなのか軽くお伝えしておこう。

プロテスタントの始まりはマルティンルターの宗教改革から始まるのである。

当時のカトリックの教会には汚職や腐敗がはびこっていた。ドイツの聖職者であったルターは、当時の教皇レオ10世によって出された贖宥状の発行など、教皇の支配する教会の在り方に疑問を感じ、カトリックと決別した

https://www.news-postseven.com/kaigo/57399

ルターはいわゆるカトリック教会が発行した免罪符に疑問を持っていた。この免罪符は大体的に販売された。名目はサン・ピエトロ大聖堂建築資金である。

この免罪符簡単にいうと、金払えば罪が許されるというテイのカルトビジネスである。一体誰に許されるのだろうか?

そしてルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来は罪のゆるしに必要な秘跡の授与や悔い改め無しに、金銭で贖宥状を購入することのみで煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた

https://www.wikiwand.com/ja/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6

ルターはいわゆる免罪商売を問題視し、やがてそれは神聖ローマ帝国の庶民や諸侯を巻き込む政治問題へと進化したのであった。この免罪符商売はきっかけに過ぎない。

今まで溜まっていた、カトリック教会の教皇の世俗化や、聖職者の堕落が相まって新教への分離がおきただけである。

ルターはプロテスタントのためにルター教会などを設立した。さらに諸国もそれに続いたのであった。

16世紀は近代国家の萌芽の時代で、それまで各地域からの教会税はバチカンの収益となっていた。近代国家の誕生とともに、各国は経済的な理由から自国の富がバチカンに流れることを可とせず、自国内に止めておくことをむしろ歓迎し、それぞれの地域の教会が、ローマと絶縁することを積極的に後押しした。

https://www.wikiwand.com/ja/%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9

また当時印刷技術をグーテンベルクが発明していたのも追い風となったのである。このように技術改革は政治や支配構造を破壊する力を秘めているのである。

またもっと正確にいえばローマ教会を批判していた人間はルター以前に存在していた。フスである。しかし彼の運動は失敗してローマ教会により処刑されている。彼が最初のプロテスタント殉教者とも言われている。

ちなみにトランプの宗教はキリスト教プロテスタントのカルバン派の一派である長老派であることが知られている。そして地下室おじさん(バイデン)はカトリックである。

そんなカトリックがこれはいかんと考え設立したのがイエズス会である。当然フランシスコはスペイン生まれのカトリック教会の一人である。

狙いをヨーロッパから日本や他国に切り替えただけなのである。

日本支配

当然フランシスコザビエルの狙い通り、イエズス会は日本に侵入したのだ。

1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB

そして薩摩国の島津貴久に宣教の許可をもらったのであった。そしてザビエルは征夷大将軍の足利義輝に謁見を試みたが、献上の品がなくて失敗。ザビエルは山口に行く。

義輝はその後三好三人衆から抹殺される。いわゆる永禄の変である。

その時にザビエルは盲目の琵琶法師とあった。彼はザビエルの教えに感動した。免罪符の話は出たのだろうか?そしてその琵琶法師はロレンソ了斎と呼ばれるイエズス会の強力な宣教師と進化したのだ。

彼は信長にも布教の許可を取り付け、信長の目の前で日蓮宗の反キリシタンの朝山日乗とも論戦を繰り広げている。

そして大友宗麟が目をつけたのである。ザビエルは小銃や眼鏡、絵画など珍しい者を持ち込もうとしていた。献上品は天皇に奉納しようとしていたのである。

そして信長に武器を提供したイエズス会員はルイスフロイスである。

1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%B9

ちなみにこの足利義昭は室町幕府の最後の将軍であるが、本能寺の変にて明智光秀を唆した説も繰り広げられている。

義昭と信長との関係は次第に悪化して行った。幕府再興と武力による天下統一を心む二者の違いは明確であった。

さらに、信長を信長の武功に対し、その褒賞として高い栄典を授けようとしたが、信長はそのほとんどを謝絶し、斯波氏の家督や管領(または管領代)の地位も、朝廷からの副将軍への任命もうけなかった[59][60][62]。結局、信長は弾正忠への正式な叙任、桐紋と二引両の使用許可のみを受け取った[61][63]。また、信長は草津大津を自身の直轄地とすることを求めていることから、虚名より実利を選択したと考えられる

https://www.wikiwand.com/ja/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

足利義昭は武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと連携し、信長包囲網を形成したのであった。

そして信長は正親町(おおぎまち)天皇も利用していた。京都を制圧できた理由も正親町天皇を保護するという大義名分があったからである。当時の朝廷は財政や、権威も失墜していたが

信長は援助をしそれを救った。その代わりとして、天皇の権威を利用したのであった。最大のライバルである石山本願寺にも天皇の勅命を出して和議を出したと言われる。

のちにイエズス会の宣教師はこう記した。日本には二人の統治者がいたと。それは信長と正親町天皇であると。

そして信長はやがて天皇を越えようとしていたとも言われる。歴史上天皇を超えようとする人間は暗殺されている。足利義満も平将門もそうだ。それは当然の話だが。

朝廷や義昭は信長に恨みを抱いていたように見える。それはイエズス会も同じである。

というのも信長はイエズス会とも縁が切れる。イエズス会のヴァリニャーノと信長は安土城で面会をした。彼はローマ法王への献上品を託する。

さらに奇妙なことにルイスフロイスも信長の死について、ローマのイエズス会総長に報告書を送っているのである。

しかし豊臣秀吉はイエズス会の脅威をわかっていたのだろう。イエズス会は勢力拡大を繰り広げていた。彼はバテレン追放令を出し、イエズス会を追放したのであった。

そして朝廷や公家は安土城に入城していた光秀に勅使が送られている。そしてイエズス会のフランシスコカブラルは大友宗麟や、足利義昭から信頼を勝ち得ていたとされる。

さらに明智家はイエズス会とも近いのではと言われている。

他方、安土の教会にいた都の教区長ニェッキ・ソルド・オルガンティーノは、事態を受けて急遽京都に向かうが、途中光秀のいた坂本に立ち寄っている。この経緯は、彼に同行したシメアン・ダルメイダが報告している。

https://www.tsushin.keio.ac.jp/column/category/entry/column-064678.html

実際光秀の三女である玉は細川ガラシャに改名している。

珠は宣教師たちが九州に行く前に、大坂に滞在していたイエズス会グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、自邸でマリアから密かに洗礼を受け、ガラシャ(Gratia、ラテン語で恩寵・神の恵みの意。ただしラテン語名に関して、ローマ・バチカン式発音により近い片仮名表記は「グラツィア」)という洗礼名を受けた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3

キリシタンの宣教師が彼女の性格を評したものや『細川記』に採録されている逸話を見ると、気位が高く激しい性格の持ち主であったらしい[13]。しかしキリストの教えを知ってからは、謙虚で忍耐強く穏やかになったという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%A3

さあこれは歴史の謎である。ただの邪推なので、答えは不明。

世界貴族

そんなイエズス会だが当然資金提供をしていたものがいるのである。その資金提供者として名前が上がっているのはヴェネチアの黒い貴族であるとも言われている。

彼らはローマ帝国の貴族の生き残りである。黒い貴族は名前に過ぎず、ヴェネチアの寡頭勢力である。いわゆるオリガルヒである。

そんな黒い貴族だが、ローマ法王庁やヨーロッパに避難されていたと言う。これは説に過ぎないが、この黒い貴族はカトリック教会の分裂を模索したと言う。

彼らはロンドンに拠点を移し、一部をバチカンに残した。彼らはイエズス会にバックアップをしたとも言われている。イグナチオやフランシスコに資金を提供していたのは彼らとも言われている。

さらにルターの背後にも黒貴族がいたとも言われる。ルターは免罪符を非難したが、たかがそれだけで圧倒いうまに全土に広がるのも違和感がある。

拡散には資金が必要だ。それは今も昔も変わらないだろう。確かにこの戦略だと両張りになり、分裂を図れるだろう。ローマ教皇庁は壊滅的なダメージを受けたわけだ。

これが確かならカトリックvsプロテスタントの構図を作ったのはこのベネチアのオリガルヒであろう。

確かにイエズス会はただの宣教組織ではないのである。彼らは貿易まで行っている。ザビエルはただの宣教師でもない。商売人だ。

彼れは日本だけではなく、マカオや中国とも貿易をしていた。

ザビエルは薩摩国に上陸してから、中国の泉州と日本のでのポルトガル商館の建設や、イエズス会が商館の関税を会の財源にすることをマラッカの長官に提案している。ザビエルは、日本で需要がある商品のリストも作った[14]

https://www.wikiwand.com/ja/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E8%B2%BF%E6%98%93

マカオ当局とイエズス会の間では、毎年50ピコの生糸をイエズス会の取り分とする契約が結ばれた。イエズス会はプロクラドールという貿易や財務担当の役職を任命して、南蛮貿易から財源を調達するようになり、禁教後もこの関係は続いた

https://www.wikiwand.com/ja/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E8%B2%BF%E6%98%93

彼らは勝手に財源も確保している。

東インド管区の巡察使としてアレッサンドロ・ヴァリニャーノがマカオに着き、日本への布教資金の確保を課題とした。そこでカルネイロは、生糸の出資組合であるコンパーニアやアルマサンと契約を結ぶ。この契約により、毎年50ピコの生糸の割り当てをイエズス会が確保するようになり、会の財源となった。

https://www.wikiwand.com/ja/%E5%8D%97%E8%9B%AE%E8%B2%BF%E6%98%93

そしてイエズス会を承認したパウルス3世もファルネーゼ家の重要人物である。

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そして怪しいなと邪推しているのはガスパーロコンタリーニである。彼はベネチア貴族のコンタリー二家の生まれである。彼はバチカンに枢機卿に選ばれている。

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1535年、パウルス3世は、福音主義の有能な人をローマの利益に結びつけるために、予期せず世俗的な外交官を枢機卿にしました。コンタリーニは受け入れましたが、彼の新しい立場では、彼の以前の独立性を示しませんでした。彼が枢機卿に昇進したとき、1535年5月21日[4]、彼はまだ素人でした。

https://www.wikiwand.com/en/Gasparo_Contarini

さらにコンタリー二はロヨラのイエズス会を育成したとも言われている。さらにコンタリーはルターとも接近している。

またルターの教義の核心である信仰義認説については1511年に枢機卿コンタリーニがルターとは無関係にこの結論に達している

コンタリーニ、グロッパーなどはカトリックの穏健派で、論争に際してはルターとの和解を模索した。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E5%AE%97%E6%95%99%E6%94%B9%E9%9D%A9

まとめると結果イエズス会とルター派に分かれたローマカトリック教会は分裂し、戦いが起きるのであった。

さて誰が一番得をした?

まとめ

  • プロテスタントとカトリックの分離が宗教改革により起こった
  • 分裂したカトリックはイエズス会を使い、ヨーロッパ以外でも宣教活動をした
  • しかしイエズス会は貿易もセットで行った。なぜただの宣教師がこんなに商売がうまい?
  • しかしこれの裏にいるのはベネチアの貴族(オリガルヒ)ではないかとも言われている。
  • 彼らはヨーロッパやバチカンから目の敵にされていた
  • 確かにコンタリー二はルターとも繋がりがあり、イエズス会のロヨラとも繋がりがある
  • ルターの免罪符批判の張り紙1枚でここまで分裂が広がるのも不思議である。
  • このような運動には資金提供が必要だ
  • 気合と根性とハッタリでは不可能だ
  • 結果としてローマカトリックは分裂し貧弱になった
  • それは裏で資金提供をしていたものにメリットをもたらしたのだろう。
バチカン
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