美智子の親友貞子
美智子の親友は緒方貞子である。緒方貞子といえば聖心女子学院の出身である。彼女はICUの准教授であり、指導学生には一橋の名誉教授もいる。
小学校5年生の時に日本に戻り、聖心女子学院に転入、聖心女子大学文学部英文科(現:英語英文学科英語英文学専攻)を卒業(自治会の会長も務める)。その後、父や、聖心女子大学学長のブリットの勧めでジョージタウン大学およびカリフォルニア大学バークレー校の大学院で学び、政治学の博士号を取得した。大学院での指導教員はアジアの政治・国際関係を専門としたロバート・スカラピーノ。
研究活動編集
国際基督教大学准教授、上智大学教授を歴任する。在籍中は上智大学国際関係研究所長や外国語学部長などを務め、また模擬国連団体として初めて組織化された「模擬国連実行委員会[注 1]」の顧問として、発足に携わった。指導学生に野林健一橋大学名誉教授、納家政嗣一橋大学名誉教授などがいる[4]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E8%B2%9E%E5%AD%90
緒方貞子の旦那は緒方四十郎である。かつ父親は自由党総裁の緒方竹虎である。親族には犬養毅がいる
1979年、日本銀行の外国局にて局長に就任した。1981年、日本銀行の理事に就任し、国際関係を統括した。1985年9月にアメリカ合衆国で開催された先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議においては、日本銀行総裁の澄田智に随行した[1]。なお、このときの先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議において、プラザ合意が発表された[1]。
日本銀行退職後は[1]、1986年より日本開発銀行の副総裁を務めた[6]。その後、1991年に副総裁を退任した[6]。
1991年より山一證券、富士ゼロックスなどの取締役を歴任した。また、国際連合の財政諮問委員会にて共同議長も務めた。
2014年4月14日午後0時55分、心不全のため東京都港区の病院で死去した[1][2][3]。86歳没。
父である緒方竹虎は、政治家として要職を歴任し、第4次吉田内閣、第5次吉田内閣ではいわゆる副総理を務めた。妻である緒方貞子は政治学者であり、国際連合難民高等弁務官や国際協力事業団理事長などを務めた。子の緒方篤は映画監督となった[7]。そのほか、縁戚関係のある著名人は多数いるが、ここでは親族に該当する者のみを記載した。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E5%9B%9B%E5%8D%81%E9%83%8E
緒方竹虎氏はCIAと協力関係にあったと言われている。この緒方竹虎なる人物が上皇陛下に深く関わっているのが非常に興味深い訳だ。
CIAとの協力関係
緒方竹虎氏はコードネームポカポンと呼ばれ、上皇陛下との関係からCIAは非常に高く彼を評価していた。この計画では彼は次期首相とある。また並びに昭和天皇の退位も計画に入っていたのである。そして明人様に譲位をする計画であった。これはまさに皇室を骨抜きにしてしまう作戦ではなかろうか。
緒方はCIAの協力者であり、CIAが緒方政権擁立のために積極的な工作を行っていた事実が2006年、アメリカ国立公文書記録管理局が公開した外交文書によって明らかにされた。
2009年夏、早稲田大学で行われた20世紀メディア研究所公開研究会において、米中央情報局(CIA)によって「吉田茂のあとに緒方竹虎を首相にすれば米国の利害で日本を動かすことができる」と対日政治工作を行っていた事実が報告された。山本武利・吉田則昭との共同研究によるもので、CIA「緒方竹虎ファイル」から解読し、緒方のコードネームPOCAPON と「ポカポン工作」の全容を含めて明らかにされた。
2017年に公開されたCIA機密文書(1952年6月18日機密指定)によれば、講和条約発足後に昭和天皇が退位して、緒方がかつて教師役をつとめたことがあり友好関係を持つ明仁皇太子に譲位し、それに伴い吉田茂首相も辞任、後継に緒方が首相に就任する(1953年の下旬から1954年の上旬)との見通しをCIAが持っていたことが明らかになった[25]。 しかしその情報源が、緒方に近いグループに属する日本人から聞いたという中国国籍の人物だったため、政局を有利に展開させるための緒方派による情報工作の可能性があるとして、この譲位問題に関する情報価値は未確定であるとCIAに分析されている
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E
緒方はまたソ連スパイである尾崎秀実を昭和研究会に入れていた
近衛文麿のブレーン組織である昭和研究会には、緒方の承認の下、前田多門、佐々弘雄、笠信太郎、尾崎秀実ら中堅・若手論説委員や記者が参加しており、緒方自身も第2次近衛内閣期の新体制準備委員として新体制運動に積極的に関与した。しかしその中から、緒方が可愛がっていた尾崎秀実が1941年(昭和16年)10月にゾルゲ事件で逮捕されたことは、緒方派に大きな打撃を与えた
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%AB%B9%E8%99%8E
上皇様の教育係
上皇様の教育係として名前が上がるのは小泉信三、緒方、安倍、バイニング夫人である。小泉氏には緒方氏から内閣への顧問へと要請があったこともある。つまり関係はあるということだ。つまりCIAの息のかかった緒方から手紙を受け取れるような関係にあるのが小泉ということである。
都倉 小泉信三は、戦争中の慶應の塾長で、学徒出陣で学生を送り出す立場だったわけですが、一方で、戦後を見据えた人選に名前が挙がり、その待望論が戦後まで持続する。やはり「小泉信三展」のときに発掘された資料で、昭和20年8月の緒方竹虎から小泉宛ての手紙があり、これによると東久邇宮内閣の顧問を打診されている。小泉の空襲での負傷がかなり重篤であったことが知られていなかったようです。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2019/05-1_5.html
河西 基本的には、初代宮内庁長官だった田島道治が説得するので、その意味では田島が小泉を買っていたということだと思います。彼らは象徴天皇制を一定の方向に持っていきたいという思いがあったと思います。田島は、最初は退位論者でもありますし、戦前とは大きく変えたいという思いは大きかったのでしょう。
それで小泉を説得した。彼はそれまでも皇太子の教育に携わってはいましたが、小泉を常時参与にするのは田島でしたから、その影響力は大きいと思います。
河西 やはり、『ジョージ5世伝』を一緒に読んだということはとても大きいと思います。後に今上天皇は記者会見の中で、自分が影響を受けたのは安倍能成と小泉信三と坪井忠二の3人だとはっきり言っています。ヴァイニング夫人ではないのですね。
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/features/2019/05-1_5.html
また小泉信三やバイニング夫人はクリスチャンである。この教育から現上皇様はキリスト教に侵され始めていたのだろう。またバイニング夫人はGHQの差金であり、昭和天皇陛下とは別居生活までさせられ隔離されながら教育を施されたのである。昭和天皇の御意志が入らないようにするために別居をさせてまで教育したのであろうか。これはまさに幼帝をGHQ流に育て、キリスト教流に育てて骨抜きにするやり方であろう。
1946年10月には、アメリカ人のエリザベス・グレイ・ヴァイニングが来日、週に1度明仁皇太子に英語の個人授業を行う、家庭教師となった。彼女は1950年11月まで約4年間、明仁皇太子の家庭教師を務めた。12歳から17歳という多感な時期にヴァイニングからの教育を受けた明仁皇太子は、その影響を強く受けたのである。ヴァイニングが家庭教師となったのも、昭和天皇が皇太子への教育は憲法改正などの占領下で起きていた社会状況にあわせて変化したものでなければならないと思考し、また自身の皇太子時代の外遊経験から外国文化との接触の重要性を認識していたことが大きかった。天皇はそれゆえ、占領軍(GHQ)に対してアメリカ人家庭教師の推薦を依頼、皇太子を親米派としておきたいGHQの意向とも一致し、ヴァイニングが家庭教師となった。
ヴァイニングは皇太子に対して、敗戦後の日本が世界の中で生きていくことを強調して教育を行った。敗戦後の日本は平和主義を意識して再出発しており、キリスト教クエーカーとしてのヴァイニングの思想にそれは合致していた。また、彼女の教育を受けることによって、明仁皇太子は自発的・主体的に行動をしつつ、人々との関係性を考えることを認識するようになった。これは、現在の明仁天皇の思想や行動の原点ともなっているのではないだろうか。
このように、ヴァイニングによる教育の内容は、戦前のそれとは異なっており、明仁皇太子の人格形成に大きく影響を与えた。
1937年3月、赤坂に東宮仮御所が完成し、明仁皇太子は両親から離れてそこへ移り、別居生活を送りながら教育されていく。皇太子にとって、このように両親から離れていた経験が家庭生活を渇望させることになる。ヴァイニングの教育も、こうした皇太子の土壌に、種をまいたのであろう。
https://bunshun.jp/articles/-/7555?page=2
さらに小泉信三もクリスチャンである。また小泉はマルクス・レーニン主義の批判者でもあり、対ソのアメリカとも相性が良かったのだろう。またバイニング夫人と、小泉は終生文通でやり取りをしていた関係である
『共産主義批判の常識』は1949年(昭和24年)に新潮社より刊行されベストセラーとなった。新潮文庫(1954年(昭和29年))や講談社学術文庫(1976年(昭和51年))で改訂再刊し、多くの著作中でもっとも多く読まれた著書の一つである。塾長退任後に刊行された『共産主義批判の常識』は、昭和初期に行った共産主義批判の論文と内容に大差はないが、マルクス・レーニン主義が国家再生の思想としてもてはやされていた状況を憂慮し、戦後のソ連共産主義についての直接の言及が多くなっている。この流れで講和問題でもソ連とは与せず単独講和論を主張している[13][14]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B3%89%E4%BF%A1%E4%B8%89
1948年、娘の加代に初孫エリが生まれます。
https://www.rieikai.com/ylp/koizumi/
しかし、この子は2歳で亡くなってしまいます。
信三は深い悲しみを感じ、洗礼を受けてクリスチャンになります。
信三と同じく教育係で、皇太子殿下の英語の家庭教師ヴァイニング夫人が4年間に及ぶ任期を終えて帰国しました。
夫人と信三の文通は終生続いたそうです。
しかし小泉の帝王学を三島は痛烈に非難したのである。キリスト教流の小泉帝王学は三島には受け入れ難いものだったのだろう。三島の考えは尤もだろう。
2600年もの間神道が紐づいてきた皇室に異教であるキリスト教が侵入するなどありえない話だからだ。この骨抜き教育が皇室破壊の一因となって閉まっている感は否めない
三島は、戦後の象徴天皇制に対して、大衆社会化に追随した「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄している。「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼし、民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵している。れんだいこ的には、ここが三島天皇論の限界ではないかと思っている。ここでは詳細には述べないが、れんだいこの天皇制論と真逆になっている。これについては別途言及しようと思う。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kodaishi/nihonseishinco/mishimayukioco/tennoron.html
GHQの狙いは日本人の精神の破壊だったのだろう。当時の日本人の精神に紐づくのは皇室であり、神道であった。それを弱めてしまえば、精神を大きく毀損することが可能である。
現上皇陛下はそのような策略のもとで教育をされてしまったのだろう。
第一、二章では、戦争をどのようにとらえるべきかについて述べている。今を生きる日本人が戦前を全否定していると筆者は語っているが、そうなったわけはGHQの歴史教育の否定、日本人への多くの嘘の注入にあったという。国としての核心を考えるとき、「神道」「皇室」「歴史問題」を大切にするはずなのに、攻撃・批判の対象にされてしまうのが今の日本の姿である。戦後、アメリカは戦時の日本人の精神を恐れ、再びアメリカの脅威となることがないよう、日本人を精神的に弱体化する手段を取らざるを得なくなった。日本という国、すなわち日本人の集まりであるこの集団を精神的に弱体化させるためには、日本人から歴史とアイデンティティを奪うことにあったのである。一国の国柄やアイデンティティを論じるとき、もっとも大切なことは、その国の歴史をしっかりと捉えることである。戦前を全否定する戦後の歪んだ「歴史観」を今も多くの日本人が抱えているということは、日本という国の衰退を意味している。
第三章は皇室について書かれている。天皇というものは、日本人にとって敬うべき存在あるいは世界に類なき君主として捉えている。「神風特攻隊」の玉砕覚悟の突撃だけでなく、日本人一人一人の自己犠牲があったからこそ、彼らは立派に国体つまり天皇を守り抜いた。アメリカ人から見ると“天皇信仰”のすごさをまざまざと見せ付けられた。戦時中のこの皇統を断絶すること(日本人特有の精神を否定すること)によって、日本人の精神弱体化を図ることが可能であることを意味した。アメリカは戦後の国全体の共産主義への転換や国民の反撃の恐れを懸念し、徐々に絶やす方法を取った。そしてその目論見は現実のものとなり、現に昨今皇族の跡継ぎ問題が議論されている。したがって跡継ぎ問題の背景には、アメリカの戦略によって皇位継承者の範囲が極限されてしまったという事実が原因であるのは当然であり、この問題を解決するにはアメリカの戦略以前の状況を想定し、皇族をもともとの大きさまで広げていくことしかないのである。
そして最後に日本文明についてである。歴史の否定による戦後の歪んだ「歴史観」によって本来の日本の国柄を忘れ去った日本人はたくさんいる。国体の弱体化を図られ、忘れ去られた日本の再起について書かれている。もともと「穢れ」に対して敏感で、心をつねに清潔に保っておきたいという精神文化や内面にある道徳的な美しさなどといった霊的、精神的なものが日本の根幹を形作っている。この独特なる日本文化の心髄は心の中にあり、それは「誠」と「和」である。日本人が誓う「神」とは自分自身の心、精神であり、日本が「神の国」つまり「心の国」であることは、今でもまったく本質において変わっていない。そしてそれ自体が日本の形であり、和魂を堅持し、日本文明を愛し止まなければ、この国は発展するのだと筆者は言う。
https://web.wakayama-u.ac.jp/eco/ritornello/article.php?vol=16&num=6
キリスト教と美智子の侵食
さらに上皇様は骨抜きにされることになる。それはクリスチャンとしか思えない美智子との結婚であった。前例のない庶民との結婚、しかもカトリック教徒にしか見えない者との結婚は神道と密接なつながりがある皇室には受け入れ難いものであった。その異物の混入は間違いなく皇室の権威を大きく失墜させた。結果として開かれた皇室なる幻想がメディアや週刊誌を賑わせ、ミッチーブームの文字が一面を覆った。しかしそれは皇室の大衆消費そのものであり、行き着く先は英王室のようなスキャンダルに見舞われた姿であった。ある種の神格性や隠れている部分がないと象徴たる性質として皇室は機能しなくなるのは明白である。大衆側に皇室が降りてきてもそれは象徴性とは相容れないわけだ。
現状起こっている杜撰な秋篠宮のスキャンダルはこのミッチーブームの弊害であろう。しかしこのミッチーブームがなければ秋篠宮の悪事も明らかにはならなかったので複雑な心境ではある。国会でもこのクリスチャン界隈には物議が起こった。
実家である正田家は代々カトリックでした。父方の祖母であるきぬがまず1927年、27歳の時にカトリックの洗礼を受け、その夫の貞一郎(ていいちろう、日清製粉社長などを務めた)も49年、79歳の時にカトリック関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂)で受洗しました。葬儀も東京・四谷のカトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で日清製粉会社社葬として執り行われています。父のあとを継いだ三男の英三郎が父親ですが、やはりカトリック信徒といわれています。母親の富美子も、聖路加国際病院で臨終の間際に洗礼を受けています。
http://christianpress.jp/october-20-empress-michiko-birthday/
「もう一つ重大なことは、この婚約を運ばれた方々、運動に当られた方々が全部カトリック教徒である。前の田島(道治・初代宮内庁)長官もカトリック教徒であり、それから宇佐美(毅・第2代同)長官もカトリック教徒であり、小泉信三氏(東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王の教育の責任者)もカトリック教徒であり、それからしゅうとになられる正田英三郎氏もカトリック教徒である。それから最高裁判所長官の田中耕太郎氏もカトリック教徒である。カトリック教徒の一連のからくりによってこの婚約が運ばれたという説が流布されておるが、これはいかがであるか、承わりたい」
https://kokkai.ndl.go.jp/simple/detail?minId=103104889X00519590206
https://www.tomakomai-ct.ac.jp/wp01/wp-content/uploads/2014/06/kiyou/kiyou24-24.pdf
このような前例のない結婚には多くのものが反対した。当然である。
島田雅彦のまとめによれば、その中で大内を名乗る人物は、天皇夫妻を昭和天皇や香淳皇后に比して、「華美で西洋風な生活を送り、神道よりもキリスト教に親和性が高く(元々、皇后が学習院ではなくミッション系大学の出でもあることから)、国民の望む皇室の主としてふさわしくない」という批判をし、それを皮切りに『週刊文春』などにも平成の皇后に対するバッシング記事が相次いで掲載された[30][31]。宮中の最高権力者の一人となった皇后への、守旧派の「最後の反撃」と国民の「漠たる反感」が背景とされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%9A%87%E5%90%8E%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90#%E5%A4%96%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F
「(将来の皇后となる)皇太子妃は「皇族(臣籍降下後の旧宮家)か五摂家(伯爵以上)といった特定の旧華族に属する女性から選ばれる」ということが習わしとされており、「平民から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、1958年(昭和33年)の正田美智子の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対された[16]。
旧皇族久邇宮家出身で姑ともなる皇后良子(当時)は夏に、静岡県の御殿場[注釈 3]に高松宮妃、秩父宮妃、松平信子らを招き、「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん」と当時の侍従と数時間懇談し、妃の変更を訴えたとされる。しかし11月の皇室会議では、猛反対をした一人であった秩父宮妃勢津子も賛成し、全員一致で可決した。
旧皇族の梨本伊都子[17]は、明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付の日記に、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた」と記している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%9A%87%E5%90%8E%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90#%E5%A4%96%E5%9B%BD%E8%A8%AA%E5%95%8F
このような結婚への反対があったが、上皇と上皇后は結婚することになった。皇族男子の結婚には皇室会議の儀が必要である。この結婚の後ろ盾をしている人間があまりにも巨大だったからではないか。そしてこの二人を結ばせようと必死になっていたのは洗礼を受けた小泉信三である。
東宮大夫に就任した五七(昭和三十二)年十一月には、宇佐美毅宮内庁長官(※注2)や慶応義塾塾長を務めた小泉信三参与(※注3)ら六人で構成する皇太子妃選定のメンバーに加わった。「意外なことに、その時点においてこれはという具体的な候補は特定されていない」と記述。
五八年に入り、「主な女子大」に皇太子妃の候補となる人物の推薦を極秘に依頼。「学習院」と「聖心女子大」から返答があった後の同年五月二日の宇佐美長官らとの会合で、聖心女子大を卒業した美智子さまが「唯一の候補として合意された」としている。
故鈴木菊男元東宮大夫が、皇太子妃選考の経緯をまとめたメモの一部。「正田美智子さまが唯一」と記述がある
鈴木氏は「両親はじめ御家庭環境等すべての条件において正田美智子さまほど適はしい(※注4)と思われるお方はなかった」と評価。「第二、第三の候補が具体的に協議されたという事実は無かった」と書いている。
上皇さまは五七年八月に長野・軽井沢のテニスコートで美智子さまに出会い、その後も何度か会う機会があった。メモにはその点や、良縁だったことを「神慮」と表現している。
五八年十一月の皇室会議で婚約することが正式に決まり、五九年四月に結婚した。当時「テニスコートの恋を実らせた」として話題になった。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/20097
上皇ご夫妻のご成婚前、首相として皇室会議の議長を務めたのが岸氏だった。前出の皇室担当記者はこう続ける。
「上皇さまと平民出身の美智子さまとのご結婚には、皇族の中からも反対する声が上がりました。そうした状況で、お二人のご結婚を進めたのが岸氏でしたから、ご夫妻は岸氏に好印象を抱かれていたそうなのです。
https://jisin.jp/koushitsu/2132089/2/
「1954年に発足した統一教会は、共産圏と対峙していた西側諸国の保守派と協力関係を築き上げて勢力を拡大。その過程で文氏と笹川氏は接点を持ったといわれています。
その象徴が、1968年に日本と韓国で発足した政治団体『国際勝共連合』です。初代会長には、統一教会日本法人の会長だった久保木修己氏が就いています。この勝共連合の名誉会長を1972年まで務めたのが笹川氏でした。
笹川氏と岸氏は、ともにA級戦犯容疑者として収監された巣鴨プリズンで親交を深めました。1957年に首相となった岸氏と統一教会の関係を笹川氏が取り持っていたのです」
https://jisin.jp/koushitsu/2132089/
岸氏や笹川氏はよくCIAのエージェントであると言われる。統一協会もまたKCIAが設立に関わっている保守の皮を被った反日団体である。
コリアゲート事件の調査を行ったアメリカ合衆国下院のフレイザー委員会の調査によって、統一教会は1961年に当時の大韓民国中央情報部長官・金鍾泌によって再編され、韓国政府およびKCIAと密接な関係を保ち、その要請により、米国議会に対して贈賄等の政治工作を行い、何百万ドルもの資金を違法に調達して国境を越えて移動させていたことや、米国内で反日デモを組織するなど、韓国の国益を促進し、韓国の政治的目的を達成するために各種の工作を行っていたことが明らかになっている[23][24][25][26]。
統一教会は、教団系の学生団体である原理研究会による家庭破壊や学業放棄等の問題、霊感商法とマインドコントロールを応用した高額な物販と献金、勧誘・教化手法に関する問題や、教団が結婚相手を決める合同結婚式、信者間の養子縁組、麻薬関連のマネーロンダリングと密輸、大韓民国中央情報部(KCIA)と連携した国際的な政治工作活動、反共産主義や朝鮮半島の統一の支持、金日成時代からの北朝鮮との密接な関係、歴史修正主義、文化共産主義論の流布、反夫婦別姓、反LGBT運動、世界各国の保守派・極右勢力との関係など、様々な問題で物議を醸している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%B5%B1%E4%B8%80%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E9%80%A3%E5%90%88
大韓民国中央情報部(だいかんみんこくちゅうおうじょうほうぶ、略称KCIA)は、朴正煕時代の韓国の情報機関である。米国CIA(中央情報局)との関係も深く、各国での政治的ロビー活動を達成すべく、反共産主義をスローガンとした統一教会(世界平和統一家庭連合)、国際勝共連合を文鮮明と共に設立した事でも知られる[1][2][3][4]。1976年には、CIAによる「ウォーターゲート事件」後に発生した「コリアゲート事件」を首謀した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%83%85%E5%A0%B1%E9%83%A8
笹川や同じく名前が上がる児玉は右翼のドンとも呼ばれ、別にCIAのエージェントとも言われている。
また生前はマスコミからは、「ファシスト」、「右翼」、また「政財界の黒幕」「右翼のドン」と扱われ、「CIAエージェント」であったと否定的に報じられていた[12][13][14][2]。
晩年は、世間的には児玉誉士夫や田中清玄と並ぶ右翼の巨頭と目されていた。1974年(昭和49年)、アメリカのタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」
児玉 誉士夫(こだま よしお、1911年〈明治44年〉2月18日 – 1984年〈昭和59年〉1月17日)は、日本の右翼運動家。自称CIAエージェント[1][2][3][4]。暴力団・錦政会[注釈 1]顧問[5]。1941年11月、児玉が属した国粋大衆党を主宰する笹川良一の紹介で海軍省(海軍大臣は嶋田繁太郎)の外局である航空本部(本部長は山本五十六)より招かれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E7%8E%89%E8%AA%89%E5%A3%AB%E5%A4%AB
では美智子様を快楽主義者とバッシングした宝島や文芸春秋に弾を放ったのは一体誰なのだろうか。この弾丸がきっかけにメディアは口を閉ざすことになり、皇室内における美智子政権が継続する。これが世に言う菊のタブーである。不敬罪は戦後なくなったが、これは不敬罪の私刑は公然と行われていたのだろう。
1993年(平成5年)には宝島社本社と文藝春秋社長宅に対して反皇室報道(主に第125代天皇上皇明仁とその皇后美智子の生活態度に対する批判)に抗議するとして拳銃弾が撃ち込まれた[14]。
明治維新以後第二次世界大戦までは、天皇や天皇制に対して批判的な言論は、体制批判として旧刑法施行以後不敬罪規定で取り締まられ、社会的にも強い排除圧力があった。また、後に治安維持法が制定され、国体(天皇制)を否定する活動について罰せられることとなった。
戦後は、言論の自由が広く認められ、刑法から不敬罪が削除されたことで、天皇や天皇制に対して批判的な言論であっても、法的に禁圧されることはほぼなくなり、社会的にも批判に寛容になった。しかし、右翼団体やその構成員が、暴力的な手段を用いてこれを封殺しようとする事件をたびたび起こした。暴力被害に遭うことやトラブルになることを恐れてマスメディアなどは、天皇や天皇制に関する批判的言論を控える(自主規制する)ようになった。なお出版業界などにおいては天皇に係る自主規制の存在やその基準を示すものなどは特に公にはされていないが、放送業界においては、例えば日本民間放送連盟放送基準第2章(7)「国および国の機関の権威を傷つけるような取り扱いはしない。」の解説において「国の象徴としての天皇もここに含まれる。」としている[1]。この自主規制を指して、天皇や天皇制に対して批判的な言論は、マスメディアにおけるタブーの一つとされ、婉曲的に菊タブーと言われるようになった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%BC#:~:text=%E8%8F%8A%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%BC%EF%BC%88%E3%81%8D%E3%81%8F%E3%82%BF%E3%83%96%E3%83%BC%EF%BC%89%E3%81%AF,%E5%A9%89%E6%9B%B2%E7%9A%84%E3%81%AB%E3%81%93%E3%81%86%E5%91%BC%E3%81%B0%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
しかし彼らの意志だけでは上皇后と結ばせることは不可能だろう。上皇に恋をしてもらうようにしむかなければならないのである。反対する皇族にも上皇様本人のご意志なら逆らいにくいからである。
皇太子さまの「ご意向」もなく、やみくもに小泉さんらが民間人の候補入りを提言すれば、「旧華族のお妃」にこだわる松平会長らの耳にほどなく入り、反対されることが目に見えているからです。
また将来、旧華族からではなく、民間からお妃を選ぶことになるとすれば、反対派を突破する糸口として、「皇太子さまに恋をして頂く」必要性が生じてくると、当時の選考首脳らは考えたはずです。
それはなぜか。皇太子さまのご結婚には「皇室会議を経る」必要があると皇室典範に定められています。皇室会議は、首相や衆参議長のほか皇族も入った10人で構成されます。
当時の皇室会議には、民間お妃には否定的とみられていた秩父宮妃も入っており、仮に会議前の面談や会議の場で反対されると、賛成派の人の考えにも影響が出かねない事態が想定されます。
お妃選考首脳らだけでは、とても皇族の方々を説得はできないであろうことを、首脳らが念頭に置いていたとしても不思議ではありません。
https://www.j-cast.com/2012/05/13128823.html?p=all
そんな策略がうまくいったのだろう。事態はとんとん拍子で進む。そして上皇后は上皇を支配することとなる。これほどまでの人間の策略がこの結婚の水面下で動いているのであるから、この結婚が恋愛結婚などは幻想であろう。明らかに作られた、キリスト教に侵された人物を時期皇后にする政略的な結婚の被害に上皇様はあわれたのではなかろうか
そうすると、皇太子さまご本人が強い情熱をもって、反対する皇族の方々を説得されなければならなくなります。その際、その説得の原動力になるよう「皇太子さまに恋愛して頂く」必要性がある、と首脳らは考えたのではないでしょうか。
さらには、民間から皇室に入るということは、今では想像もできないほど敷居の高いことだと当時は考えられていたので、お妃候補になる人への説得も、選考首脳らだけでなく、皇太子さまご本人からの働きかけが不可欠で、その働きかけの情熱の原動力としても、やはり「恋愛」が重要だ、と首脳らはみていたのでしょう。
この1958年3月3日の小泉邸首脳会議の後、4月の初旬には、理由ははっきりしませんが、旧華族で候補だったH嬢が選考からはずれたことが首脳らの間で確認されました。
以降、民間候補の美智子さんに意見を集約する方向で選考首脳らは動いていきます。5月2日の宇佐美毅・宮内庁長官邸での会議では、ほぼ美智子さんへの候補一本化が決まります。
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そして美智子の皇室破壊は始まっていくのであった。
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