【裏事情】Vカンとイエ◯ス会の超怖すぎる闇を暴露特砲

バチカン
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黒教皇

ローマ教皇の他にもし、別の教皇が存在したら。その教皇は影の教皇である。バチカンやカトリックを支配している本当の裏教皇。あるものはそれを黒教皇と呼ぶ。

先日に引き続きイエズス会である。このイエズス会は長年の歴史を誇っている教皇に命を捧げた秘密集団であるのでそう簡単に理解できるものではないだろう。

本当の理解には大量の時間を有するかもしれない。気を長くして解説していこうと思う。イエズス会の発足はバチカン起源なのである。

16世紀の宗教改革の時代に、イグナチオ・デ・ロヨラとその学友によって、モンマルトルの礼拝堂で「清貧と貞節、エルサレムへの巡礼」の誓いが立てられたのが、その始まりである。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A

イエズス会でいえばフランシスコザビエルが焦点に当てられがちだがこのロヨラこそ大物人物なのである。彼はルターが行った宗教改革で生まれたプロテスタントに対抗するために

当時腐敗していた教会のカトリックを集めイエズス会を設立したのであった。ちなみに彼の得意技は霊操である。wikipediaによると

イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行、またその方法を記した著作。「体操」で身体を鍛えるように「霊操」は霊魂を鍛えることを目的とする。修行の到達点においては神と深い人格的交わりを持つ=神の御意志を見出すことが目指される

https://www.wikiwand.com/ja/%E9%9C%8A%E6%93%8D

かなりスピリチュアルな内容だが、彼は霊魂を操れるようだ。もしくはそういうテイなのか?それは神のみぞしる。どちらにせよこの霊操の影響はイエズス会のみならず、カトリック教会全土に派生したのであった。

つまり彼はイエズス会の初代総長である。イエズス会の総長といえば、バチカンにて教皇よりも力がある本当の支配者と呼ばれている。この早朝こそが黒教皇である。

ロヨラやザビエルを含む7人は教皇に絶対の忠誠を誓ったのであった。

「今後、7人はおなじグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこでも赴く」

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%A9

初代黒教皇ロヨラはローマ教皇パウルス3世を認可したのであった。パウルス3世の本名はアレッサンドロファルネーゼ。そう彼はあの有名なファルネーゼ家の生まれである。

彼が枢機卿になった理由は面白かった。というのは彼の妹がアレクサンデル6世の愛人に抜擢されたからである。

ファルネーゼ家はイタリアン貴族である。歴代から数々のローマ教皇や、枢機卿を輩出している名門貴族だ。ローマにはミケランジェロが設計したファルネーゼ宮(現フランス大使館)が存在している。

ミケランジェロの彫刻で最も有名なのはサン・ピエトロ大聖堂のピエタである。これはダビデ像と並ぶ最高傑作と言える。

そしてこのミケランジェロを支援していたのはレオ10世である。彼は16歳にして枢機卿になり、37歳の若さで即位をした。

1513年、ユリウス2世の死後、37歳で即位する(「最年少にして、最も醜男の教皇」と呼ばれた)。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%AC%E3%82%AA10%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

彼はまたルネサンス三大巨匠と呼ばれるラファエロのパトロンでもあった。これは父親譲りのパトロン文化であろう。彼の父親はメディチ家のロレンツォである。

12月、父ピエロが死ぬと、その跡を継いで20歳でメディチ家当主となり、フィレンツェの最高権力者となった。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%81

このメディチ家はヨーロッパで最大の銀行を持っていた。それがメディチ銀行である。そして母はボニファティウス8世を輩出したカエター二家の生まれである。

そんな彼は宗教改革の発端を作ったのであった。wikipediaはこう綴る。

レオ10世が教皇として業績を残すのは、政治の面ではなく、文化の面であった。前教皇が着手したサン・ピエトロ大聖堂の建設を引継ぎ、ミケランジェロラファエロらの芸術家のパトロンとなり、ローマを中心とするルネサンス文化は最盛期を迎えた。

聖堂や広場、洗礼堂の修復を行い、前教皇に続きラファエロを贔屓にし、自らの肖像画やシスティーナ礼拝堂の壁掛け、バチカン宮殿回廊の天井画・壁画などを制作させた。ラファエロが若くして亡くなったときは非常に悲しんだ。

ミケランジェロとは幼い頃から共に過ごした仲であるが、芸術家の気難しい性格を敬遠してローマから遠ざけ、フィレンツェでサン・ロレンツォ教会(メディチ家の礼拝堂など)の仕事を行わせた。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%AC%E3%82%AA10%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

名門貴族

そして彼はサン・ピエトロ大聖堂の資金のために免罪符ビジネスを始めたのであった。サン・ピエトロはバチカン の総本山である。

カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所を祀る聖堂とされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m2。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AD%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%A0%82

このカトリック総本山の建設資金集めに彼は苦労をしていたのであった。

1517年サン・ピエトロ大聖堂建設資金のためにドイツでの贖宥状(俗に言う「免罪符」)販売を認めたことが、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった。また、行列や宴会など、とにかく贅沢が好きで湯水のように浪費を続けた。享楽に満ちた聖都ローマは、ルターに「新しきバビロン」と非難された。教皇庁には未曾有の財政破綻が起こり、「レオ10世は3代の教皇の収入を1人で食いつぶした。先代ユリウス2世の蓄えた財産と、レオ10世自身の収入と、次の教皇の分の3人分を」とも言われた。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%AC%E3%82%AA10%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

そしてルターは反発をした。彼はルターと対抗する上で神聖ローマ帝国皇帝カール5世と同盟を組んだ。彼はハプスブルク家の血を引いているのである。ハプスブルクといえばヨーロッパ随一の名門貴族と呼ばれる。

ハプスブルク家ドイツ語: Haus Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系アルザス系)の貴族

ハプスブルク家はスイス北東部(バーゼル近郊)のライン川上流域を発祥地とする。

古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門カエサル家)の末裔を自称し、中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで中部ヨーロッパで強大な勢力を誇り、オーストリア大公国オーストリア公国)、スペイン王国ナポリ王国トスカーナ大公国ボヘミア王国ハンガリー王国オーストリア帝国(後にオーストリア=ハンガリー帝国)などの大公国王皇帝の家系となった。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6

そして彼らはドイツ帝国のビスマルクから追放されたのであった。

そこで誕生したのがイエズス会である。ロヨラはこのイエズス会を軍隊と位置付けた。

ロヨラの書いた1554年版会憲はイエズス会をピラミッド型の組織として規定、会員に上長と教皇への絶対的服従と自己犠牲を求めた。ロヨラは「軍隊のごとき」服従という表現を用いている。彼の座右の銘がそのままイエズス会のモットーとなった、「神のより大いなる栄光のために」(Ad Maiorem Dei Gloriam)である。イエズス会の精力的な活動は対抗改革の原動力となった。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%A9

イエズス会は死体と同じように自我を空にする必要があることを意味します。

https://www.wikiwand.com/en/Ignatius_of_Loyola

彼の目的は異端審問を率いることであった。異端審問はいわゆる魔女狩り的なものである。実際イエズス会を承認したパウルス3世はローマに異端審問所を立てているのである。

異端審問(いたんしんもん、ラテン語: Inquisitio)とは、中世以降のカトリック教会において正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステム。

https://www.wikiwand.com/ja/%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F

1542年、時の法王パウルス3世によってローマに設けられた異端審問所は、従来のような教皇によって少数の異端審問官が任命されるシステムを廃し、神学者や学識の誉れ高い枢機卿たちからなる委員会が、特定の教説や著作に対して異端性がないかどうかを審議すると同時に、各国で行われる異端審問に問題がないよう監督することを目的としてつくられた。

https://www.wikiwand.com/ja/%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F

そして異端審問所所長になったパウルス4世はかなり厳格に異端根絶を進めた。彼はかなり過激な教皇であり、あのロヨラさえもこの異端審問の恐怖政治には恐れをなしていたくらいであった。

彼は100人以上を逮捕した。逮捕されたもののその後は誰も知ることはない。さて何が行われていたのだろうか?想像するのも怖い話である。

1542年にローマの異端審問所所長にも任命され、イタリアの異端審問所を再編成して異端根絶とプロテスタントのカトリック復帰に厳しい手段をもって努力した。この時から厳格さと無慈悲さで恐れられ、「異端であれば、例え自分の父親であっても火炙りにするだろう」と公言してはばからなかった[

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%82%B94%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)

このような残忍な異端審問ではまず被疑者は宗教裁判にかけられる。なんと疑わしきは有罪である。弁護士も存在していない。自白のためには拷問も受けた。強制断食や、鞭打ち、投獄そして、自白しなければ火破りと無茶苦茶であった。

異端審問

このイエズス会やカトリックローマ教皇の異端審問の起源はスペインとも言われる。意外かもしれない。スペインのフェルナンド二世は金融業者から多額の債務をしていたのであった。

彼はこう考えた。抹殺できれば借金がチャラになるぞ。彼はローマ教皇に赦しを得に行った。シクトゥス4世である。願いはこうだった。

異端審問はすべて教皇の管轄下で行われるため、もしフェルナンドがスペイン国内で異端審問を行っても自分の思い通りにはできず、教皇庁の介入を許すことになる。フェルナンドは異端審問を自らの政治目的に沿って利用するためにも、教皇の監督行為を排除した異端審問を行いたいと考えていた。そこでスペインにおいて王の監督のもとに独自に異端審問を行う許可を教皇シクストゥス4世に願った。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F

流石に教皇は拒否をしたが、そこで暗躍した枢機卿がロドリゴボルバであった。そしてなんと教皇は独自の異端審問を認めたのである。つまりローマがスペイン独自の異端審問を認めたのである。

結果はどうなったか?当然散々であった。初代異端審問所所長になったトルケマダはたった18年間で8000人を焼き殺したのであった。そして彼はドミニコ会の修道士でもあった。

ドミニコ会(ドミニコかい)は、1206年聖ドミニコ(ドミニクス・デ・グスマン)により立てられ、1216年ローマ教皇ホノリウス3世によって認可されたカトリック修道会

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%B3%E4%BC%9A

拷問自白を引き出すために用いられ、被疑者が自白すると刑罰が執行された。刑罰も一律ではなく、人前で異端であることを示す服を着せられて見世物にされる程度の軽い刑から火刑による処刑までさまざまであった。

端審問は告発者が秘密であることが特色であったため、しばしば異端と関係ない無実の人々が恨みなどから、あるいは王室から与えられる報奨金目当てに訴えられることも多かった。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E7%95%B0%E7%AB%AF%E5%AF%A9%E5%95%8F

このドミニコ会とイエズス会がカトリックの異端審問所に大きな役割を果たしたという。何か同じような匂いが共産主義国家でもしそうだ。実はキリスト教共産主義という言葉も存在している。

これはおかしい言葉だが存在している。キリスト教とマルクス主義者は絶対に相容れないはずだからだ。

キリスト教共産主義(キリストきょうきょうさんしゅぎ)は、キリスト教内における宗教共産主義思想。

中世教会法では万物が神の財産であり、「神のもの」だから財産の私有は正しくなく、財産の共有が正しいという見解が主流だった。

宗教改革期においても、アナバプテスト等の急進的なプロテスタント教派達は、財産共有を主張しながら、平等社会の具現を、キリスト教を通じて成そうとした。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9

実際マルクスはこう解釈していた。

マルクス共産党宣言の中で「キリスト教社会主義」に言及しており、キリスト教の主張が社会主義的であることを指摘した上で、キリスト教社会主義は貴族階級の不満を聖化するための聖水に過ぎないとしている。

https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9

さらにポルトガルでも恐ろしい異端審問は起きていた。1175人が焼却されたのであった。この残忍な裁判をローマ教皇のパウルス3世は黙認していたのである。

そして当然だが、この異端審問は海外へ輸出されることとなった。アジアである。フランシスコザビエルは恐怖の輸出をするのであった。

これらの考えとカトリック教会の聖職者に代わっての異端審問の実践は、イエズス会とポルトガルの植民地管理者によって、エスタドダインディアなどのポルトガル植民地に広められました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Goa_Inquisition#The_Inquisition_in_Portugal

またペルーやブラジルにも輸出されている。彼らはスペインやポルトガルの植民地である。

ブラジルに、ポルトガルの植民地として、1821年までされました1536年に始まったポルトガル異端審問の300年近くの弾圧の影響を受けた

https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_the_Jews_in_Brazil#First_Jewish_arrivals

またザビエルはゴアで異端審問を開始したのであった。wikipediaにはこうある

ポルトガルはゴアにも宣教師を派遣し、植民地政府はヒンズー教徒やイスラム教徒に洗礼を施すことに奨励金を出してキリスト教宣教を支援した[38]。彼はゴアの異端審問の歴史に影響を与えた人物、フランシス・ザビエルと一緒にゴアに到着した[24]。さらに、1546年5月16日付でポルトガル王ジョン3世に宛てた書簡の中で、ゴアでの異端審問を開始するよう王に懇願している[7] 。

https://en.wikipedia.org/wiki/Goa_Inquisition#The_Inquisition_in_Portugal

さらにポルトガルはヒンドゥー教の寺院を破壊した。まるでやってることが中共である。

ヒンズー教の寺院はポルトガルのゴアで取り壊され、ヒンズー教徒は新しい寺院を建てたり古い寺院を修理したりすることを禁じられました。イエズス会の寺院解体部隊が結成され、16世紀以前の寺院を積極的に破壊し、1569年の王室の手紙には、インドのポルトガル植民地にあるすべてのヒンドゥー寺院が破壊され、焼失したことが記録されています(desfeitos e queimados)。[49]

https://en.wikipedia.org/wiki/Goa_Inquisition#The_Inquisition_in_Portugal

さらにイエズス会は誘拐も行っていた。

父親が亡くなったヒンズー教徒の子供たちは、キリスト教への改宗のためにイエズス会に引き渡される必要がありました。[47]これはポルトガルからの1559年の王室命令の下で始まり、その後孤児であると主張されたヒンズー教徒の子供たちはイエズス会に捕らえられ、 キリスト教に改宗した。[48]この法律は、母親がまだ生きていても、場合によっては父親が生きていても、子供に施行された。ヒンズー教徒の子供が押収されたとき、親の財産も押収されました。

https://en.wikipedia.org/wiki/Goa_Inquisition#The_Inquisition_in_Portugal

イエズス会のよくある都市伝説はここからきているのかもしれない。そしてそれは都市伝説ではなさそうだ。

中学生の時に習ったザビエルのイメージは今や見る影もない。そんなイエズス会出身のフランシスコは今ローマ教皇である。バチカンは表も裏もイエズス会に支配されたと言える。

まとめ

  • サン・ピエトロ大聖堂の建設資金がないので、ファルネーゼ家のパウルス3世は免罪符商売を始めた
  • ルターはそれを非難した。そして宗教改革が始まり、イエズス会が設立された
  • 初代黒教皇のロヨラはイエズス会を軍隊化した。教皇に絶対的な忠実を誓う秘密組織である
  • さらに異端審問所が建てられた。
  • またスペインやポルトガルでも異端審問所が建てられており、何千人もの人間が異端とみなされ焼き殺されている
  • そしてイエズス会やポルトガルやスペインはこの異端審問所を輸出した
  • そのターゲットはアジアである。インドのゴアではザビエルが王に異端収容所を作るように要請している。
  • 子供はイエズス会に捕らえられた。
  • これは強制収容所と特に変わらない。何か共産主義との親和性を感じてしまう
  • イエズス会は神ではなく教皇への絶対忠誠であった。

いと恐ろしい。闇が深すぎるので現代への展開は結構先になるかもしれない

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